[いわれおしえ宗旨おこないやすらぎ]

 機とは、仏教一般には機根(きこん)とかあるいは機縁(きえん)といって、教えを受ける側の心理状態や宗教的資質をいいます。現代的にいうと、機判とは宗教心理学的考察といえます。教えを受ける側とは、人類をはじめ生きとして生けるすべての衆生を指します。日蓮大聖人は天台大師の経文(法華経20章の常不軽菩薩品の部分)解釈をうけて、この教え「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」に従順な機根とそうでない機根の二種類があると規定されました。それを順縁と逆縁といいます。

 大聖人は仏陀亡き後2000年以後の末法において、その妙法五字に縁なき衆生が大多数を占めるわけですから、末法の機を謗法逆機(ほうぼうぎゃっき)と受けとめられました。この謗法とは、法を謗(そし)るということですが、妙法五字に縁なき者も謗法の者とされました。すなわち末法の今に生きる私たち妙法蓮華経の五字に縁なき衆生がこの機判で絞り込まれたわけです。そして、妙法五字とそれに縁なき者達の関係については、まず天台大師の三種教相(さんしゅきょうそう)とその中に説かれる三益論(さんやくろん)について述べなければなりません。


 三種教相とは、天台大師が『法華玄義』の中で説かれた教義で、法華経には法華経以外の他のすべての経典よりも勝れている点が三種類あるということです。すなわち、一には根性の融不融の相。二には化道(けどう)の始終不始終の相。三には師弟の遠近不遠近(遠近=おんごんと読む)の相。

 一の根性の融不融の相は、法華経の第4章の信解品の説相から立てた法門です。すなわち釈尊の立場からみられて、衆生の機根が釈尊の真実の教えを正しく受け入れられるかどうかということです。融とは機根が素直に受け入れられる状態を指し、不融とはその反対をいいます。他の経典は、不融通の機根に対した釈尊のお説法であり、それを随他意の法門といいます。一方法華経は融通した機根に対する一乗真実の教えであり、それを随自意の法門といいます。このことを天台大師は五時八教(ごじはっきょう)の教判で説明されました。

 二の化道の始終不始終の相は、法華経の第7章化城喩品の説相から立てられた法門です。釈尊の化道といって、そのお導きは三世に亘って終始一貫性がなければなりません。法華経には下種益、熟益、脱益の三益論が説かれ、その始終について明かされますが、他の経典ではその始終は説かれません。三益論については後で説明します。

 三の師弟の遠近不遠近の相は、法華経の第16章如来寿量品の説相によって立てられた法門です。他の経典では師匠である釈尊は菩提樹の下で悟りを開かれた始成正覚(しじょうしょうがく)の仏であって、その弟子との関係は一時的なものに過ぎないのです。歴史を超越できなかったともいえるでしょう。しかし、寿量品では印度の釈尊にそくしてその永遠性(久遠実成)が説かれ、その弟子の久遠も示され、師弟ともに久遠の関係に立つことが明かされました。ですから久遠本仏は能統一の仏として、また三世十方の諸仏はその分身、諸菩薩はその弟子として位置づけられます。

 以上この三種の法門は、法華経と他の経典とを比較して法華経の超勝性を示しかつ了解せしめんとするものです。一と二は迹門の説相であり、三は本門の説相です。第一第二は天台大師、伝教大師の立場であり、末法の今、大聖人の法門は自ら第三の法門と表明されました。このことは先の教判のところでも述べましたが、法華経の本門部分とりわけ寿量品にその教えの根幹があることを示されたものです。


 三益論は、仏の三世にわたる衆生の教化に種・熟・脱の三層の利益があることをいいます。三種教相の第二化道の始終不始終の相から出た教義です。すなわち法華経の第7章化城喩品では、釈尊が過去の世に大通智勝仏の第16番目の王子として生まれ、弟子となって修行し、悟りを開いて以来、無量の衆生を教化し法華経を説いてきたのです。法華経を説くことは、衆生に仏になるための種子を下したということで、これを下種益といいます。この下種を受けた衆生[天台大師はそれを本已有善(ほんいうぜん)と規定しました。もとすでに善(下種のこと)あると書き下します]は、いろいろな教えを聞いて教化され、機根が調えられ成熟しました。これを調熟益といいます。すなわち印度の歴史上の仏陀は過去において下種された衆生に対してさまざまな教えを説いて、熟益を与えましたが、その機根がいよいよ熟したので、最後に法華経を説いて、悉く成仏得脱せしめようとされたのです。この成仏を与えることを解脱益といいます。つまり成仏の利益を植物の育成に譬えて明らかにしたわけです。種子を蒔いて(下種)、いろいろ肥料を施して成育し(調熟)、最後に果実の収穫脱穀(解脱)するのに譬えたわけです。重要なことは、種は常にこの妙法蓮華経にかぎるということです。

 この三益論は三種教相の第二化道の始終不始終の相から出た法門ですから、迹門の三益です。ところが天台大師の『法華文句』では本門にも三益があることを示唆しています。つまり末法の衆生は、本門の寿量品で説かれるように、悪業の因縁によって動転していて、過去に下種を受けていない衆生[天台大師はそれを本未有善(ほんみうぜん)と規定しました。もと未だ善(下種のこと)あらずと書き下します]とされます。まだ仏に成るべき種子が下されていない機根であるから、大聖人はこの法華経に縁なき機根を謗法逆機とし、下種益と同時に脱益をもかねた法華経、すなわち寿量品の肝心妙法蓮華経の五字こそ最も勝れた教えとし、南無妙法蓮華経によって法華経に縁がない末法の衆生に下種を施されたのです。

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