[いわれおしえ宗旨おこないやすらぎ]

摂受と折伏

 このお言葉は、日蓮大聖人の『教行証御書』という書物に述べられています。これは、久遠本仏からいただいた仏種(ぶっしゅ)である南無妙法蓮華経がいくらすばらしいものであっても、そのすばらしさが広く多くの衆生に行きわたらなければ意味がないということです。縁なき衆生に南無妙法蓮華経を下種しなければならないということです。ここで、下種については「おしえ」機判三益論のところで説明しましたが、少し観点をかえてここではお話しします。

 下種には、下種するあるいは下種させるという能動的な意味と、下種されたという受動的なことを意味する二つがあります。まず、下種するあるいは下種させるということについては、仏教では本来その法を広めるための方法として摂受(しゅうじゅ)と折伏(しゃくぶく)の二通りがあります。これを説明しないと能動的な意味の下種は理解できないのですが、ここではその説明を摂受と折伏の項目のところに譲ります。

 次に、下種されたという意味のときは、受持(じゅじ)ともいいます。大聖人によって流通されたこのお題目を未来永劫に受け持(たも)たなければならないのです。ところで久遠本仏は、この仏種である南無妙法蓮華経を始めのない昔から、ありとあらゆるところの一切衆生に下種していたのです。つまり、下種されていたことを私達は忘れ去ってしまったということです。譬えれば、仏種は皿に乗った団子だとします。皿に乗った団子を、永遠の大昔の久遠本仏から頂戴していたはずなのに、今末法では皿だけになっているのです。団子を食べてしまったのではなく(冗談)、乗っていることに気がつかないだけです。仏種を皿と団子に分けて、専門用語でいったなら、皿の部分を性種(しょうしゅ)といい、仏教一般でいう仏性です。すなわち仏になる可能性のことです。団子は乗種(じょうしゅ)といい、もちろん南無妙法蓮華経です。団子があると気がつかなければ、無いに等しいということです。本当の団子は食べ物ですが、ここで団子を唯物論的にも唯心論的にも考えなくて、仏教ですから縁起論としてとらえるのです。またなぜそれがいえるのか。『法華経』の第2章の方便品「仏種は縁に従って起こると知ろしめす」の経文に依るからです。

 ここにこういうお話があります。居酒屋で酔っ払った学生は財布を空っぽにしてしまいました。ところが故郷の親にあらかじめ頼まれていた居酒屋の女将は、学生が酔っ払ってちょっと寝込んだすきに、彼の教科書の入ったリュックに仕送りのお金をそっと入れました。学生は次の日から酒飲みたさにバイトに励みました。そして金が貯まり居酒屋に来てみると、その女将に仕送りのことを知らされ、学生はもっと早く授業に出ていたならば、その仕送りに気が付いていたのにと悔やんだのでした。このたとえ話では充分に譬えられないのですが、ここでいう故郷の親は久遠本仏であり、居酒屋の女将は大聖人です。仕送りのお金は勿論お題目です。要は、本仏と上行菩薩(本化)と本法の関係をしっかり押さえないと駄目だということです。下種の導師は一往は大聖人ですが、本当は久遠本仏であるということです。この三者の関係がわからないと、大聖人を本仏だとする曲解が生じたり、またバイトばかりする自力仏教になったり、故郷のおふくろが必ず助けてくれると信じるだけの他力仏教になるのです。

 さてさて、お話が長くなりましたが、「おこない」の方法としては、受持とはお題目を身・口・意に唱えるということです。これは、正行(しょうぎょう)といって最も大事な修行です。また、実際にお経本で法華経を読む()、暗記した法華経を唱える(・じゅ)、法華経の解説書を読書する(解説・げせつ)、法華経を写経する(書写)の五つの正行を助ける助行があります。このホームペ−ジを見て、すこだけ信じてみようと思ったあなたに、もっと具体的な修行方法をお説きしましょう。ご本尊もない、寺にも行きたくないあなたにとっておきの実践方法をお教えします。それは手は合掌し、口にお題目をかすかにでも唱え、心に次の五つのことを念じるのです。もちろん、恥ずかしければ誰も見ていない時に行なったらいいでしょう。例えば、風呂の中とかベットの上でもいいです。あるいはトイレの中でもかまいません。重要なことは次の五つのことを念じて唱えるのです。

 1、仏法僧の三宝に対して報恩感謝の念を持つことです。仏とは、久遠実成本師釈迦牟尼仏。法とは、平等大慧一乗妙法蓮華経。僧とは、本化上行高祖日蓮大菩薩。2、自分がしたことのすべてに懺悔の念を持つことです。あなたがまったく悪いことをしていないと思っていても、時としてあなたの普通の振舞いが他人にとっては憎まれる原因となる場合があります。3、南無妙法蓮華経のお題目をこれからも受持し続ける誓いの念を持つことです。継続して誓いを立てることです。「今身(こんじん)より、仏身(ぶっしん)にいたるまで、よく持(たも)ちたてまつる」と誓願するのです。4、先祖に対し供養の念を持つことです。命に対する感謝の念でもいいでしょう。今あなたが存在しているのは、必ずひいおじいさん四人とひいおばあさん四人がいらっしゃったからです。「親は十人の子を養えども、子は一人の親をも養うことはない」という大聖人のお言葉もあります。5、いわゆる祈りの念を持つことです。最終的には世界全体が平和になるよう祈るのですが、まあここでは病気が治るようにとか、志望校に合格するようにとか、事業がうまくいくようにでもかまいません。以上の5つつでは、1.が一番大事ですので三回お題目を唱え、2.〜5.は一回づつでいいとしたら、最小限たった七回お題目を唱えることでいいわけです。重要な点は、少しの時間でもいいから毎日継続することです。大聖人も火のような信仰より、水のような信仰でなければならないといわれています。すぐに熱く燃え盛りまた消えてしまうような信仰より、小さな小川でも決して絶えない川の流れのような信仰こそ本当の信心だということです。信心こそ根本であり、お題目を唱えることによって信念の源泉を得るのです。

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