[いわれおしえ宗旨おこないやすらぎ]

 教とは、一念三千(いちねんさんぜん)をつつむ法華経寿量品の肝心、妙法蓮華経の五字をいいます。教判ということは、今の言葉に置き換えると宗教哲学的考察とでもいえるでしょう。またこの教判で妙法蓮華経が絞り込まれるわけです。ところで、そもそも日蓮大聖人が一切のお経の中から法華経を選んだ根拠は、釈尊の遺言である涅槃経の「依法不依人」の経文であると先の「いわれ」でも述べましたが、仏説に随順して教えを立てた中国の天台大師(538-597)の『法華玄義』に明かされる三種教相判や五時八教判を研鑽された結果でもあります。大聖人はその上に仏教の教えだけでなく、世界の一切の宗教の教えや思想を取捨選択する価値体系として五重相対(ごじゅうそうたい)を、またそれら宇宙法界の一切の教えを包括すべく価値体系として五重三段(ごじゅうさんだん・四種三段ともいう)を明示されました。


 五重相対は、大聖人が佐渡へ流された文永九年(1272)二月に書かれた『開目抄』の中で述べられています。この『開目抄』は大聖人自ら「一期の大事」といわれ、大聖人の書かれた書物やお手紙類四百四十数種類のうち、二番目に大事な書物です。五重相対はそこで説かれ、世界中の宗教の教えや価値観を5段階に比較対照します。第1段階では内道と外道。第2段階では大乗と小乗。第3段階では権教と実教。第4段階では迹門と本門。第5段階では教相と観心。最終的に妙法蓮華経の五字こそ末法永遠の大法であることを論証します。

1、内外(ないげ)相対→内道(仏教)と外道(仏教以外のすべての宗教の教え)と比較対照し、内道すなわち仏教を選び取るということです。そのわけは、仏教は三世(過去現在未来)の因果を説き明かすからです。これを縁起論を説くといいます。一方外道は三世を知らないし、縁起も説かないから劣るとされます。

2、大小相対→仏教の中でも大乗仏教(大衆部仏教)と小乗仏教(部派仏教)を比較対照し、大乗仏教を選び取ることです。そのわけは、大乗仏教では一切衆生に仏性(仏になる可能性)を認め、また利他行といって自分以外の衆生をも救う方向性を持っています。それは、一切衆生の成仏の可能性を説き明かす慈悲の教えであります。一方小乗仏教は一切衆生に仏性を認めないし、自利行といって自分の成仏ばかりに専念する方向性を持つから劣るとされます。

3、権実(ごんじつ)相対→大乗仏教のなかでも、権大乗教と実大乗教を比較対照し、実大乗教を選び取ります。これは具体的にいうと、法華経を所依の経典としている宗派を実大乗教といい、現在では天台宗系及び日蓮宗系の宗派がそれにあたります。実大乗教が勝れているわけは、法華経には二乗作仏(にじょうさぶつ)と久遠実成(くおんじつじょう)が説かれているからです。二乗というのは阿羅漢(声聞)と聖者(独覚)のことで、この人たちを含め二乗作仏は、女性はもちろん畜生も極悪人もそして草木もすべて成仏できるという教えです。また、久遠実成とは印度に生まれられた歴史上の仏陀にそくして、釈尊は永遠であるということです。これは十界互具(じゅっかいごぐ)一念三千という法門が法華経に説かれているからですが、ここでは説明を省きます。したがって、法華経を所依の経典としない権大乗の教えは一段劣るとされます。

4、本迹(ほんじゃく)相対→法華経の中でも迹門(『法華経』28章のうち第1章の序品から第14章の安楽行品までの前半部分)と本門(『法華経』第15章の従地涌品から28章の普賢菩薩勧発品までの後半部分)とを比較対照し、本門を選び取ることです。この迹門に教学の重点をおく宗派が天台系寺院であり、本門に教学の重点をおく宗派が日蓮系寺院です。なぜ、本門の方がすぐれているかというと、迹門は二乗作仏を説きますが、まだ理念論の世界にとどまっているのです。つまり、一切衆生の成仏(大小相対のところで述べた成仏の可能性ではなく成仏そのもの)が示されたにすぎません。しかし、本門では歴史上の仏陀にそくして釈尊の久遠実成を開顕されたからです。法華経を説いた仏の永遠性が明かされたからです。

5、教観(きょうかん)相対→法華経本門の中でも本門の教相(特に第16章の如来寿量品の経説)と観心(如来寿量品の経意)を比較対照し観心を選び取ることです。理屈(理証)や文献(文証)だけの教相でなく、実践(現証)のともなった法門でなければならないということです。それが観心ということです。すなわち、観心とは内証の寿量品のことで、妙法蓮華経の五字をさし、それを意でも読み、口でも読み、身でも読むということです。現代的にいうと抽象分別を越えたところの体験事ともいえるでしょう。またここに、宗教たらしめる実践活動が出てくるわけです。以上五重相対は5段階にわたって取捨選択していき、最終的に妙法蓮華経の五字を選び取るということで、その五字はお経のタイトルではなく法体(ほったい)そのものであり、本仏釈尊の御心であります。もちろん時間的にも空間的にも制約されることはありません。


 次に五重三段四種三段ともいう)は、大聖人が『開目抄』を書かれた翌年の文永十年(1273)の四月に『観心本尊抄』の中で発表されました。この『観心本尊抄』は大聖人が自ら「当身の大事」といわれ、大聖人のすべての書物の中で最も重要なものです。またその年の七月八日に大曼荼羅ご本尊をご図顕されました。この五重三段は、先の五重相対のように相対する教えを比較対照し取捨選択するのではなく、一切の教えを序分(じょぶん)・正宗分(しょうしゅうぶん)・流通分(るつうぶん)の三段に分けていきます。序分というのは今でいう序論にあたります。正宗分は本論にあたります。流通分は応用論あるいは実践論といったところです。一切の教え、一切の価値観等を妙法蓮華経の五字の序論とし、応用論として南無妙法蓮華経と実践するのです。先の五重相対によって切り捨てられた一切の教えや価値観というものを、この五重三段によって蘇生させ、生かしていくわけです。いわば、五重相対が批判原理なら、五重三段は再生原理といえるでしょう。よく大聖人は他宗を批判ばかりしたといわれますが、この五重三段によってその誤解もとけるでしょう。これらの底辺には仏教思想の基盤である縁起論が、厳然として横たわっているのはいうまでもありません。ちなみに、お経をこの三段に分けた最初は中国の釈道安(312-385)だったとされ、あの『法華経』を翻訳した鳩摩羅什三蔵(344-413)とも関係があったともいわれています。

 1、一代三段→釈尊が説かれた一切のお経のうち、法華三部経を正宗分とし、それ以前説かれたお経をすべて序分、涅槃経を流通分とします。

序分 華厳経・阿含経(小乗仏教のお経)・方等経(具体的には浄土三部経,維摩経,大日経等殆どの大乗経典)・般若経
正宗分 無量義経・法華経・普賢経
流通分 涅槃経

 2、十巻三段→十巻三段は法華三部経を天台大師の一経三段にならって三段に分け 、その正宗分を法華経の第2章の方便品から第17章の分別功徳品の前半までとします。

序分 無量義経と法華経の第1章序品まで
正宗分 法華経の第2章の方便品から第17章の分別功徳品の前半まで
流通分 法華経の第17章の分別功徳品の後半から最後の章第28章普賢菩薩勧発品と観普賢菩薩行法経

 3、迹門三段※a:→迹門三段は法華経の前半14章の迹門部分を三段に分け、第2章の方便品から第9章授学無学人記品までを正宗分とします。

序分 無量義経と法華経の第1章序品まで
正宗分 第2章の方便品から第9章授学無学人記品まで
流通分 第10章の法師品から迹門最後の第14章安楽行品まで

 4、本門三段※a→本門三段は法華経の後半14章の本門部分を三段に分け、第15章の従地涌出品後半部分と第16章如来寿量品と第17章の分別功徳品の前半部分(一品二半ともいう)を正宗分とします。

序分 第15章従地涌出品の前半
正宗分 第15章の従地涌出品後半部分と第16章如来寿量品と第17章の分別功徳品の前半部分(この部分を一品二半という)
流通分 第17章の分別功徳品の後半より法華経最後の章第28章普賢菩薩勧発品と観普賢菩薩行法経

※a 3の迹門三段と4の本門三段を一つにまとめ二経六段とした場合、五重三段といわず実際には四種類の三段となるため、四種三段ともいう。

 5、本法(ほんぽう)三段→この本法三段は別に法界三段、観心三段、文底三段ともいわれます。過去・現在・未来の三世にわたる諸々の仏のお経をはじめ、十方各方面の浄土の諸々の如来の説くお経すべてを序分とし、本法である妙法蓮華経の五字を正宗分とします。この三段は究極の三段分科ですが、大聖人は流通分をあえて説かれになりませんでした。しかし、南無妙法蓮華経が流通分であることはいうまでもありません。

序分 「十方三世諸仏微塵の経々」ですから、今でいう宇宙法界すべての教えや価値観
正宗分 「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」-『観心本尊抄』より
流通分※b 「南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし」-『報恩抄』より

※b この本法三段の正宗分に南無妙法蓮華経をあて、流通分に大聖人のご化導(お導き)をあてる説がある。しかし、三段分科は「法」という概念を分科するもので、あくまでも大聖人は流通分の導師であるが、流通される側のものにはならない。これを人法不対という。ただしこの解釈の意味合いというものは非常に重要で、日頃の私達の信仰の中で生かされなければならない。つまり大聖人を通して見ない、あるいは考えないお題目はないということです。すなわち、末法永遠に亘って上行菩薩応現の大聖人こそ、お題目下種の大導師です。第二第三の大聖人のなり代わりのエセ教祖を出さないためにも、大聖人の純粋な教学を押さえなければならない理由がここにあるのです。

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