[いわれおしえ宗旨おこないやすらぎ]

 このお言葉は、『法華取要抄』という書物の中で述べられています。日蓮大聖人といえば南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経といえば日蓮大聖人といわれるぐらいお題目と大聖人とは切っても切り離せない関係です。つまり、宇宙全体の一切の教えというものは、妙法蓮華経の五字に集約される、あるいは妙法蓮華経の五字として絞り出されるといえるでしょう。もちろんお題目といってもお経のタイトルという意味ではないし、「ミョウホウレンゲキョウ」という発音でもないのです。どうしても「妙法蓮華経」という漢字でなければならないのです。

 トップペ−ジの「急ぐ人はお読みください」でも述べましたように、大聖人の教え(教相判釈すなわち教えの判断基準)は五綱(五義ともいう)三秘だといわれています。ここの「おしえ」では、その五綱といって五つの綱、つまり師(序)の五つの観点からほんとうの教えを考察し、見極め、実践することです。その観点とは、よく一般に5W1Hといわれる、いつ、どこで、だれが、というのと似ています。つまり、どのような教えを誰にいつどこで誰が説くのかということです。ただ単に他の宗祖達が、勝手な発想やひらめき、あるいは夢のお告げなどのたぐいによって、これまたその宗祖達が救い難いと決めつけた迷える人々に教えを指し示すという単純な教相判釈ではないのです。

 釈尊の教えを整理し(あたりまえのことですが判釈というぐらいですから宗祖の判断基準でなく釈尊の判断基準でなければならないのです)、その教判にしたがって教えを受けとめなければなりません。すなわち、『法華経』の第21章の如来神力品では「如来の滅後において(時)、仏の所説の経(教)の因縁(機・国)及び次第(序)を知り、義に随って実の如く説かん(師)。」と説かれ、本仏釈尊の大慈悲心を察し、釈尊滅後二千年以後の末法には上行菩薩がこの五綱の教判をもって妙法蓮華経の五字を弘通しなければならない、と大聖人はその経文の真意を見抜いたのでした。

上に戻る へ戻る