[いわれおしえ宗旨おこないやすらぎ]

霊山往詣

 いよいよこの[やすらぎ]へ来ましたね。まあ、他をとばして最初にここを開いた人もいるでしょうが・・・。さて、上のお言葉は『光日上人御返事』に述べられています。これは日蓮大聖人が、弥四郎という子供に先立たれた母、光日房(光日上人)に宛てた手紙です。母子ともに没後霊山往詣(りょうぜんおうけい)は疑いないと大聖人はその安心(あんじん)を示されたのです。霊山往詣のことについてはその項目のところで説明しますが、ここでは安心すなわち「やすらぎ」についてお話しします。『法華経』の第3章の譬喩品で「その心安きこと海の如し」とあります。心が凪ぎの時の海の上を歩けるんではないかと思うぐらい、落ち着いた海面のような安定した状態です。また同じく譬喩品には「実智の中に安住す」とあり、実智すなわちほんとうの智慧である南無妙法蓮華経の中に安心があるということです。一念三千という成仏原理がそのお題目の中にあり、成仏が決定(けつじょう)する安堵感ともいえるでしょう。ここで、みなさんが一番尋ねたいところの死後の世界、あるいは輪廻転生(仏教ではりんねてんしょうと読む。てんせいと読むのは間違い、もしくは仏教以外の意味を指す)のことと合わせて安心についてさらに詳しく述べましょう。

 みなさんは、あの宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』という童話を御存知でしょうか。賢治は最愛の妹トシを亡くし、その死後の世界を追及した作品だとか、賢治の臨死体験を作品にしたものだといわれています。その場合、主人公のジョバンニは賢治であり、親友のカムパネルラは妹のトシでしょう。「はじめにお読みください」でも少しお話ししましたが、南無妙法蓮華経の信仰ないし賢治の信心というものなしにこの作品は存在しなかったでしょう。また賢治の作品すべてに信仰が滲み出ているのです。そう、銀河の大宇宙は久遠本仏であり、その列車は法華経であり、ジョバンニが手にしたあの切符こそ南無妙法蓮華経です。賢治生誕百年以来、世間では静かな宮沢賢治ブームです。しかし賢治の信仰とか宗教観についてはほとんど触れられず、また理解されていないというのが現状です。賢治の安心は世界の安心であり、世界の安心つまり国土の成仏なくして個人の安心はないということです。ここです。この国土という依報の成仏が重要なのです。世界の安心を得るためにも、この法華経的安らぎを世界中の皆さんに教えてあげなければなりません。

 話は賢治の世界にそれましたが、輪廻転生にもどります。大聖人は輪廻転生をどのようにとらえられていたのでしょうか。また、なぜ一切衆生は輪廻転生するのか。大聖人も読まれた『大智度論』や『倶舎論』にそれが出ています。すなわち、私たち今生きている生命というべきものは、必死(ひっし)の生(せい)であります。必ず死ぬ生命です。しかしそれを一つの有(う)としてとらえ、全部でその有は四つあると仏教では考えます。否、実際に四つあるわけです。生命を受けた瞬間、人間でいうと卵子に精子が受精した瞬間を生有(しょうう)、私達が生まれたから死ぬまでを本有(ほんう、ほんぬとも云うが意味を変えるためにほんうと区別する場合がある)、臨終の時を死有(しう)、死んでから生を受ける瞬間までを中有(ちゅうう)といいます。また、その有は五蘊(ごうん)から成り立っています。色・受・想・行・識の五つです。そのうちの識には九つがあって、御存知の通り眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識の上に一般でいう意識があります。さらにその上に末那識(まなしき)と阿羅耶識(あらやしき)があり、それぞれ深層で挙動する自我執着心と自我根本心であります。そして最後に菴摩羅識(あんまらしき、無垢識ともいいます)です。この根本の究極の識に業(ごう、サンスクリット語ではカルマ)といって、身・口・意の働きがこの識に焼きつけられていくわけです。生有→本有→死有→中有→生有→と繰り返す間もこの最終の菴摩羅識(無垢識)に業が焼き付いて、本有の時にそれが出てくるということです。前世から現世そして来世へとそれが展開していくのです。これが輪廻転生ということです。最近、前世が誰であったかというようなことがよく取り上げられますが、前世より来世が問題であり、業の方向としてはの方向であるわけです。なぜこの方向性に触れるかといえば、あなたの前世を引き出してあげるからといった、邪教や催眠療法と偽ったエセ診療が行われているからです。仏教では「来世に作仏を得ん」がために、現世の行いを重要視するのです。くれぐれもご注意を。

 どうでしょうか?この流転転生の中で、私達は犬に生まれたり、浜辺の松に生を受けたり、岩にしみ入る蝉になったり、極悪人として、そして平々凡々のサラリーマン生活を送ったり、時として異教徒の宣教師として、また嫉妬深いギリシャの神として輪廻転生して来たわけです。この現世というこの度の今生に、遥かなる永遠の実体・久遠本仏の大慈悲である妙法蓮華経にご縁を戴いたのです。それを自覚した瞬間から安らぎは永遠に広がるのです。お題目を唱える教団には、必死にその発音だけ同じお題目を、目をつりあげて勧める人がいます。それだけでも安心のないのがよくわかります。肩の力を抜いて、日々淡々としながらも決して絶えることのない川のような信仰で、氷が解けて春になり、梅雨が明けて夏が来る。秋晴れのススキの草原に出かけ、一面銀世界の朝に身震いする。そんな「野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ萱ブキの小屋ニイテ」(宮沢賢治著『雨ニモマケズ』手帳より)、この信念の源泉・南無妙法蓮華経を広めていただきたいと思います。時として、大聖人がいうように「ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなえ給え。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて、南無妙法蓮華経とうちとなえい(居)させ給え。」という心も忘れずに。

上に戻る へ戻る