時とは、単なる時間やその流れという意味ではなく、時代のあり方、時代における人々を中心にした衆生のあり方を意味しています。そういう意味で時判とは、宗教社会学的考察ともいえます。そもそも仏教では、釈尊のいらっしゃった時代(在世)とその亡き後(滅後)に分けます。また、その滅後を三つに分けて釈尊滅後1,000年を正法(しょうぼう)時代、滅後1,001〜2,000までを像法(ぞうぼう)時代、滅後2,001年より永遠に末法(まっぽう)時代とされます。
さらに『大集経』というお経では、社会の中における仏教を鑑みてそれを細分化します。すなわち、正法時代の前半500年間を解脱堅固(げだつけんご)時代、後半500年間を禅定堅固(ぜんじょうけんご)時代。像法時代の前半500年間を読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)時代、後半500年間を多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)時代。末法は闘争言訟白法隠没(とうじょうごんじょうびょくほうおんもつ)時代とします。
意味するところは、それぞれ字が示すごとく、悟りを得る者がまだなんとかいる時代を解脱堅固時代。解脱はできないがなんとか山林に交わって瞑想するものが多い時代を禅定堅固時代。解脱も、瞑想もできないがなんとかお経だけは読み、そしてそれについて議論だけはかわされる時代を読誦多聞堅固時代。仏の教えについては何もわからないが、堂塔伽藍すなわちお寺だけはしきりに建立する時代を多造塔寺堅固時代。そして、争い事や戦争が多くなり、釈尊の出世の本懐である法華経でさえないがしろにされる時代を闘争言訟白法隠没時代。この時判では、第五の五百年以降のどうしようもない末法という時が選ばれたのです。具体的には『周書異記』により、永承七年(西暦1052年)の年から末法は始まり、日蓮大聖人御在世はもちろん、それから今現在に至るまで及び未来永劫の末法時代です。
大聖人はこの末法観に依ったわけですが、最近の歴史学の研究ではお釈迦様の亡くなられた年代が『周書異記』の説の時代より下り、大聖人の時代はまだ像法時代だったという主張があります。しかし、鎌倉時代の法然上人(1133〜1212)や親鸞上人(1173〜1262)をはじめ当時の朝廷や知識階級も一般庶民もこの『周書異記』の末法観によっていたのは事実です。この歴史的事実ということが重要です。どういうことかといえば、例えばちょっと気に入ったテレビCMを最初に見た時、時間が長く感じますが、二回目以後に見た時はそんなに長く感じないものです。つまり、宗教的時間というか研ぎ澄まされた感覚の時間の方が絶対性を持つ場合が多いのです。またおよそ今の自然科学では時間というものはあまりにも相対的なものであるとされています。
大聖人は、現実として法難に遭いながらもその当時の絶対的なあるいは悲観的な末法観に沈潜することなく、さらにそれを超越されたのです。そのことを大聖人の最も重要な書物『観心本尊抄』で「今本時の娑婆世界は三災を離れ、四劫を出たる常住の浄土なり。」と述べられ、今本時の末法こそ絶対的な時であり、「末法為正」(まっぽういしょう)といって正しい時であると規定されたのです。
本仏釈尊がなぜ末法ということをわざわざもうけられたのか。ここが末法思想の最重要点です。久遠本仏の大慈悲は永遠であるが故に、相対的時間(末法時代)に即してその絶対性を示されたのです。大慈悲を感じとってそれをキャッチする態勢に入った時こと絶対的今時になるわけです。大聖人は、久遠本仏と対峙し、その末法思想という相対的時間論のからくりを見抜かれたのでした。まさに大聖人の教えこそ、観念論打破の法門といえるでしょう。