いわれおしえ宗旨おこないやすらぎ]

 日蓮大聖人(1222〜1282)のご生涯については日蓮宗の他のホームペ−ジに譲るとして、ここでは、大聖人の思想的系譜(仏教用語では法脈あるいは相承ともいいます)について述べます。

 大聖人が池上本門寺でお亡くなりになる弘安5年(1282)10月13日の5日前の10月8日、大聖人は本弟子六人を定められました。日昭聖人(1221〜1323)、日朗聖人(1245〜1320)、日興聖人(1246〜1333)、日向聖人(1253〜1314)、日頂聖人(1252〜1317)、日持聖人(1250〜?)のいわゆる六老僧(老僧といっても、大聖人入滅時は日昭聖人を除いてすべて30代であります。いまで云う大幹部といったところです。)と呼ばれる方たちです。この方たちに中堅幹部の中老僧12名を加え、「いづくに死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候」とされた身延山久遠寺を守るべく輪番制度を遺言されたのです。つまり、一年12ヶ月を六老僧の場合は1カ月を一人で、中老僧の場合は二人で墓を守るということです。輪番制度を今の言葉に代えると「ローテーションを組む」ということです。実はこのことに大きな意義があるわけです。

 仏教教団では釈尊以来、三衣一鉢(三枚の衣と一つの鉢という意味)を代々連綿として譲り受けてきたとか、師資相承といって一器の水を一水も漏らさず次の器に受け継いで来たとするわけです。しかし、大聖人は当時の(今もたいがいそうですが)仏教教団の常識をくつがえし、ローテーション制度を用いられたわけです。ここに、大聖人の教団(サンガ)組織に対する破格のお考えを垣間見ることができるのです。ただし、日蓮系諸派の中には日興聖人のみ唯我一人の相承を受けたとする主張もありますが、(専門的になりますが)文献学的に否定されました。ところで、先の輪番制度ですが残念ながら長く続かず、なんとか大聖人一周忌の頃まで続いたわけですが、鎌倉幕府の弾圧が厳しくなり、三回忌の頃からは日興聖人が身延山に常住し、廟塔をお守りされたのです。しかし、身延山の土地の提供者でありまた有力信者でもあった波木井実長公と信仰のあり方で対立し、とうとう正応元年(1288)12月に日興聖人は身延山を下山されたのです。ここから日蓮教団の分裂が始まるのです。

 さて、大聖人は[いわれ]でも述べましたように「釈子日蓮」と自ら規定され、釈尊と大聖人が直結するのですが、なぜ直結するのか?『大般涅槃経』には「法によって、人によらざれ」という釈尊の遺言があり、釈尊滅後その言葉を守るべく、釈尊のごとく衆生がよりどころとする四種類の菩薩(専門的には四衣の菩薩という)があらわれると遺言されています。四種類とは、第一に煩悩を完全に消滅させた菩薩。第二に煩悩をほとんど消滅させた菩薩。第三に煩悩は消滅してないが、煩悩を出ないようにコントロールできる菩薩。第四に煩悩をなかなかコントロールできない菩薩。大聖人は比叡山12年間の研鑽で、いったいその菩薩達は誰なのかと疑問に思われたのでした。もちろん一番目の菩薩は、釈尊亡き後五百年間の小乗仏教盛んな時代の菩薩、すなわち釈尊の十大弟子である迦葉菩薩阿難菩薩。第二番目の菩薩は、その後の500年間大乗仏教が興隆した印度の世親菩薩龍樹菩薩。そして、末法時代に突入するまでの1000年は、薬王菩薩や観音菩薩の垂迹として崇められた中国隋の時代の天台大師智ぎ(豈+頁という字)・平安時代の比叡山伝教大師最澄が第三番目の菩薩であるのは周知の通りだと。それならば、釈尊滅後2001年から未来永劫までの末法時代は第四番目の煩悩具足の菩薩が出現するはずではないか、と思われたのでした。

 煩悩具足の菩薩とはどのような菩薩か?末法に釈尊真実の法を広める者の条件は何か。「法によって、人によらざれ」とうことは、法というものを介在させることによってのみ釈尊から相承が受けられると大聖人は考えられたのでした。そして、その法とは釈尊出世の本懐である『妙法蓮華経』であり、その第十六章の使いを遣(つか)わせて還(かえ)りて告ぐ」の使いこそ第四番目の煩悩具足の菩薩であると確信されたのでした。すなわち経文に書かれてある地面から涌き出た上行菩薩であると。その菩薩は末法の時代に、煩悩具足の人間と現じて生まれる。(このことを応現あるいは応生という。再誕とはいわない。)しかしながらその菩薩の条件として、「ガンジス川の砂の数ほどの経典を読むより、この法華経を広めることの方が難しい。」「宇宙の頂上を手にとって投げるよりも、仏の滅後にこの経を説くことの方が難しいのである。」と法華経に書かれてあります。つまり、石を投げられたり、棒で打たれたり、また流罪や死罪に及ぶとも、この法華経を広めるためには種々の難をしのぐ人である。「我、身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」また「身は軽くても法の方が重いから、死ぬ身となっても法を弘めなければならない」という命がけの伝道者でなければなりません。

  本仏釈尊の存在は、まさにその上行菩薩が末法時代に応現することによってのみ証明されるのです。久遠本仏→→→上行菩薩という系譜は、法という概念によってのみ構築される相承であります。呼吸する経文『法華経』を、頭だけで読むのでなく、口先だけで読むのでなく、体で読まなければならない。と大聖人は比叡山での12年間研鑽の結論をもってそこを下山されたのでした。その後大聖人を待ち受けていたものは、大難四ヶ度、小難数知れない御生涯であることはいうまでもありません。なぜ、大聖人は難にあうことがわかりながら徹底的に他宗の教学の批判をされたのか。なぜ、比叡山で法華経解釈学の大家の道を選ばなかったのか。なぜ、鎌倉の大寺院の住職の地位の誘いをあっさり断られてまで迫害の道を選ばれたのか。なぜ、教主釈尊によって仏教を統一しょうとされたのか。なぜ、命を惜しまずに法華経を広めようとされたのか。大聖人が亡くなられて七百数十年間、まったくこのことを理解されずに、否、理解させることができずに今日まで来たことは私たち日蓮宗徒の怠慢という他はありません。「法に依って、人に依らざれ。」大聖人は久遠本仏の最初に化導をうけた本弟子、本化(ほんげ)の菩薩上行菩薩応現のその人に他ならないからです。

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