[いわれおしえ宗旨おこないやすらぎ]

【畑ノ下ニ居リマス】

 「下ノ畑ニ居リマス」というフレーズをご存知だろうか。そう、あの宮沢賢治のものだ。羅須地人協会の伝言板に今でも書かれている。私にはどういうわけか、その写真が印象深く残っていた。

 ある時そのフレーズを「畑ノ下ニ居リマス」と知人に話していた。すかさず「下ノ畑」と訂正が入った。私としては畑が頭にあり、下の畑か、畑の下か定かでなかった。つまり段々畑を勝手にイメージしていて、下方にある畑と決めつけていた。そしてそこに賢治は居ると・・・。

 しかし私は負け惜しみの強い方なので、「宮沢賢治もすでに亡くなっているし、畑の下には多くの生命が宿っている。畑ノ下ニ居リマスの方がより法華経的であるからより賢治的である」と。

 今この「畑ノ下ニ居リマス」のフレーズが仲間内で好評だ。だいいち夏目漱石の漱石ぽくって、何より自分ですごく気に入っている。土の臭いがプンプンして、大地から衆生がニョキニョキと涌き出てくるイメージがそこにはある。言い間違いからでた言葉なのに、どんどんと意味が膨らんでいくのである。

 どういうわけか、この手の言い間違いが私には多い。例を挙げればごまんとある。「盲導犬」と「獰猛犬」もそうだ。「もうどう」と「どうもう」、発音が似ているので反対を言ってしまっていた。途中まで気が付かなかった聞き手も混乱していたのか、「獰猛な盲導犬はいないはずだ」と。私にとってその時の話の流れ上どちらでもよかった。つまり、犬が主役であることに変わりはない。

 頭の中のイメージが強すぎて、話し言葉がそれについてこない時がある。逆の場合を考えよう。話し言葉を選びすぎて、お話し中の頭にイメージがない。すなわち、気持ちが入ってないということにならないか?私の勝手な解釈である。どこの世界にでも居る政治家達にはどうやらそれがあてはまりそうだ。もちろん宗教界にはうじゃうじゃ居る。

 ともかくそういうわけで「畑ノ下ニ居リマス」の方がいいということになった。羅須地人協会には行ったことがないので、私はいつか白墨と黒板消しを持って行こうと思う。


【9月21日の賢治祭に捧げる】

 「人間中心主義を排せ。」これはシカゴ畜産組合の抗議文ではない。狂牛病にかかったとされる約百万頭の食肉牛たちの叫びである。人間に食べられるために殺されるのならまだしも(牛自身はそれも本望ではないと思うが)、薬殺されるのではなく「焼却」されるのである。

 御存知のように、今年は宮沢賢治生誕百年である。本誌(『大阪日青』第325号)でも三原正資上人に特別寄稿を戴いているが、先月号の『ビヂテリアン大祭』に少し掛けてみた。「だから我々のまわりの生物はみな永い間の親子兄弟である。異教の諸氏はこの考をあまり真剣で恐ろしいと思うだろう。」の「異教の諸氏」とは、一往は物語の中の肉食論者を指すが再往はキリスト教徒等の仏教徒以外を指しているのは云うまでもない。この『ビヂテリアン大祭』は、大聖人ひいては国柱会が提唱してきた公場対決を想定したものだあろうと私は思う。そこには異教徒席や異派席がちゃんと用意され、しかも壇上に上がる論者は前論者に対して畏敬の念をもち且つその言葉遣いに注意を払いつつも、対手の論を的確に破邪していく。実にいいと思う。

 かく云う私は賢治初心者である。田中智学氏の『日蓮主義教学大観』を何度も読破した賢治の作品群に、法華経によせる信仰がどのように表現されているのか。知りたくなったのである。しかも最近やっとちくま文庫の全集を紐解いたところである。

 人間はあまり出てこない。特に童話では。『宮沢賢治の世界展』の総論の中で梅原猛氏は「小説というものは人間を書くものであり、人間中心主義をなかなか免れることはできないが、童話というものは、その形式の必然上、人間中心主義を免れるものである。〈中略〉賢治が信じた法華経の信仰というものは、まさにこういう人間と他の生きとし生けるものが争い合い、殺し合いながらもなおかつ共存し、互いに愛し合い、思いやる世界なのである」と述べている。仏教と外道との匂いを嗅ぎ分けることが重要である。以前、本仏を「大いなる宇宙の実体」と表現した作家がいた。それをある人は本化的でないという。しかし確実にその作家は法華経の匂いというものを嗅ぎ付けていた。総じて我々は仏教的世界観が欠落しているのである。

 「人間革命」「人間日蓮」「人間○△」等々など一般社会のみならず仏教系新興宗教にも人間中心主義が蔓延している。要注意である。戦後唯物論的教育は失敗した。というより明治以後の西洋化なかんずくキリスト教圏の人道主義が心識まではびこり垢化し、心閉塞をきたしたと云えるだろう。

 賢治の声を聞こう。

生徒諸君/諸君はこの颯爽たる/諸君の未来圏から吹いて来る/透明な清潔な風を感じないのか/それは一つの送られた光線であり/決せられた南の風である

諸君はこの時代に強いられ率いられて/奴隷のような忍従することを欲するか

今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば/われらの祖先乃至はわれらに至るまで/すべての信仰や徳性は/ただ誤解から生じたとさえ見え/しかも科学はいまたに暗く/われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ

むしろ諸君よ/更にあらたな正しい時代をつくれ

諸君よ/紺いろの地平線が膨らみ高まるときに/諸君はその中に没することを欲するか/じつに諸君は此の地平線に於ける/あらゆる形の山嶽でなければならぬ

宙宇は絶えずわれらによって変化する/誰が誰よりどうだとか/誰の仕事がどうしたとか/そんなことを言っているひまがある

新たな詩人よ/雲から光から嵐から/透明なエネルギーを得て/人と地球によるべき形を暗示せよ

新しい時代のコペルニクスよ/余りに重苦しい重力の法則から/この銀河系統を解き放て

衝動のようにさえ行われる/すべての農業労働を/冷く透明な解析によって/その藍いろの影といっしょに/舞踊の範囲にまで高めよ

新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変えよ

新しい時代のダーウィンよ/更に東洋風静観のチャレンジャーに載って/銀河系空間の外にも至り/透明に深く正しい地史と/増訂された生物学をわれらに示せ

おおよそ統計に従はば/諸君のなかには少なくとも千人の天才がなければならぬ/素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである

潮や風・・・/あらゆる自然の力を用い尽すことから一足進んで/諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ

ああ諸君はいま/この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る/透明な風を感じないのか

-『生徒諸君に寄せる』より-

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