[いわれおしえ宗旨おこないやすらぎ]

 「しゃくぶく」とキ−ボ−ドで打ってください。おそらく「折伏」と変換されるでしょう。次に、「しょうじゅ」と打ってください。「摂受」とは絶対変換されないはずです。しかし、「摂受(しょうじゅ)」と「折伏(しゃくぶく)」とはお互い反対語なのです。これは、折伏という語が本来の意味を逸脱して独り歩きしている証拠です。折伏の意味を辞書で調べてみましょう。「衆生教化の一方法。悪人・悪法を威力をもってくじいて仏法に従わせること。」と書かれています。しかし、世間一般に使われる意味としては、「相手の宗教を説き伏せるというより相手の立場や社会の常識までも度外視し、手段や言葉を選ばず無理やり自分の宗教に改宗させようとし、自分の宗教の正しさを強調すること。」と書き換えたほうがピンとくるでしょう。この折伏の意味を独り歩きさせたのは、あの教団であること言うまでもありません。

 では摂受の意味ですが、「心を寛大にして、他人を受け入れること。衆生を慈悲の手におさめ受けて育て護ること。」です。折伏も摂受も「衆生教化の方法」です。「おこない」のところで述べましたように、お題目に縁のない相手にとって、「南無妙法蓮華経」を理解し唱えていただくということが目的です。「摂受」と「折伏」の出典は、実は法華経でなく『勝鬘経(しょうまんぎょう)』というお経です。あの宮沢賢治もその『摂折御文僧俗御判(しょうしゃくごもんそうぞくごはん)』の一番最初に摂受折伏の出典として引用されています。『摂折御文僧俗御判』は、田中智学氏著『本化摂折論(ほんげしょうしゃくろん)』と大聖人の御遺文を抜粋し書写したものです。大聖人が「摂受と折伏」をどのようにお考えであったかは、『本化摂折論』を参照されるといいでしょう。現在でも摂受折伏論を解説した専門書としては仏教界で最高のものです。尚、平成10年真世界社(03-3656-7111)から原題のままの『本化摂折論』が再版されています。

 さて、結論は、宗旨に関することを教化する場合において、必ず折伏の方法をとらなければならないということです。「宗旨」すなわち、本門の本尊本門の題目本門の戒壇の教えを広めるときです。したがいまして、仏の種即ち本門の題目を下種する場合は、折伏になるのです。それでは摂受という方法はいつ用いるのかということです。宗旨以外のことに関して、大聖人は「末法に摂受折伏あるべし。いわゆる悪国・破法の両国あるべきゆえなり。日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。」と述べられ、また「法華経は一法なれどもにしたがいによりてその行によりて万差なるべし。」とされています。つまり五綱を鑑みて、ある時は摂受を用い、ある時は折伏を用いるのです。

 具体的に宗旨に関することを教化する場合、すなわち折伏する時、当然ですがその精神は久遠本仏の大慈悲心に基づかなければならないということです。折伏の出典は『勝鬘経』ですが、その説法の方法としては『法華経』第20章常不軽菩薩品不軽(ふきょう)菩薩の方法に倣わなければならないと大聖人も指摘されています。すなわち「我れ深く汝等を敬う、敢えて軽慢せず。ゆえはいかん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし。」と、漢文にすれば二十四字の文を不軽菩薩は唱えたのです。合掌して深々と頭を下げて唱えたのです。不軽菩薩は別に経典も読まずに、オロオロと出かけ東に病気のこどもあれば、その二十四字を唱えるのです。西につかれた母ある時も、南に死にそうな人がいる時もそうしたのです。ある時は、おごり高ぶった人々に、石や瓦の破片を投げられ、棒切れなどで殴られながらもそう唱えたのです。また捕らえられそうになる時は、必死に逃げながらもその相手に向かって唱えたのです。「わたくしは、深くあなたたちを敬います。決して軽べつ致しません。なぜなら、あなたたちは皆菩薩の修行をして、皆必ず仏になられるでしょう。」と。

 もうおわかりだと思いますが、この蓮城寺のホームペ−ジのトップペ−ジに書いたのはこの不軽菩薩のお言葉なのです。また、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』手帳の「デクノボー」はこの不軽菩薩のことです。この不軽菩薩の教化方法を「但行礼拝(たんぎょうらいはい)といいます。大聖人も「日蓮は過去の不軽の如く」と述べられ、お題目は但行礼拝の精神でもって下種されなければならないのです。これが折伏です。具体的にはこのホームペ−ジを理解し、バーチャル菩提寺としてリンクすることも折伏であるのです。そしてこの教えが世界全体に広まらない限り、最終的な個人の平和はない、といったのがあの宮沢賢治です。

 最後に、この但行礼拝を実践し、南無妙法蓮華経を世界中に広められた(宗)日本山妙法寺大僧伽、藤井日達猊下のお言葉を引用し結びとします。「南無妙法蓮華経。武装をもって武装に対抗し、戦争を通じて平和を守らんとするそのあとに来るものは、累々(るいるい)たる人の屍(しかばね)と愁々(しゅうしゅう)たるその怨(うら)みだけである。平和建設のためには暴力に依らずして、戦争殺人の罪悪に加わらないことが、終局の勝利であり、建設的である。そのためには非武装にて戦争を否定せねばならぬ。暴力は人を屈伏することは出来ても、人を団結させることは出来ない。礼拝(らいはい)は人を屈伏せしむることは出来なくとも、人を親密に理解せしめ団結せしむることが出来る。合掌。」 ー『毒鼓』よりー

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