「霊山往詣」と書いて、「りょうぜんおうけい」と読みます。あまり聞き馴れない言葉です。そのまま語句を訳せば、霊山浄土へ往詣するということです。この霊山浄土とは、『法華経』の第16章如来寿量品に「時に我及び衆僧、倶(とも)に霊鷲山(りょうじゅせん)に出づ。我時に衆生に語る、常にここに在って滅せず。」とあり、遥かなる永遠の実体・久遠本仏のまします絶対浄土です。また往詣とは、日蓮大聖人が『観心本尊抄副状』に「師弟共に霊山浄土に詣でて、三仏の顔貌(げんみょう)を拝見したてまつらん。」と述べれたことによります。三仏の顔貌とは、釈迦・多宝・十方分身諸仏のお姿のことです。つまりその前にひれ伏すということです。すなわち、霊山往詣とは大曼荼羅御本尊の本土に還るということです。ここで浄土ということと、成仏ということについて少しお話しします。
浄土は、穢土(えど)に対する土です。浄土という言葉は、よく阿弥陀如来のまします西方極楽浄土や薬師如来まします東方浄瑠璃浄土と言うように使われます。浄土には誰がいるのかといえば、往生した人々を始め、天女たる神々、歴史上の釈尊のお弟子である阿羅漢、釈尊より前に一人で悟りを開いた縁覚(えんがく)達、菩薩達、如来です。如来は各浄土に一人です。次に穢土は、よごれた世界、汚い世界という意味ですからこの娑婆世界です。そこには、浄土の世界に棲む四聖と人天プラス地獄界、餓鬼界、畜生界、阿修羅界の輩がいるのです。
しかし、この浄土も穢土もともに仏だけの世界ではありません。ですから、その世界を1.凡聖同居土(ぼんしょうどうごど・略して同居土という)といいます。仏だけの世界までに、実はまだ二つの浄土があるのです。凡聖同居土のうえに、二乗(阿羅漢と縁覚のことをいいます)と菩薩達だけいる2.方便有余土(ほうべんうよど・略して方便土)。その上の浄土は、3.実報無障碍土(じっぽうむしょうげど・略して実報土)といい、菩薩達だけいます。そして一番上の浄土は、諸仏のみがまします4.常寂光土(じょうじゃっこうど・略して寂光土)です。いろいろな経典に説かれた浄土は、1〜3の浄土にすぎないのです。法華経で説かれる浄土とはこの常寂光土をいうのです。その常寂光土も説かれた浄土というように思われがちですが、<本門の題目>のところの本仏の説明に述べましたように、久遠本仏の実在は証明されたのです。そしてそれを信じる者にとって、この娑婆世界が即常寂光土になったのです。それを霊山浄土というのです。
ここで大聖人の浄土観というものを少し紹介しましょう。先ず『観心本尊抄』の「今本時の娑婆世界は三災を離れ、四劫を出たる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず。所化以て同体なり。これ即ち己心の三千具足三種の世間なり。」また、『報恩抄』では「極楽百年の修行は穢土一日の功に及ばず。」と述べられています。これは、妙法蓮華経の五字七字を受持する者達の住処が浄土であるということです。極楽浄土で一万年修行しょうが、この紛争の多い現実娑婆世界を浄土にかえる修行、つまりお題目を一秒でも下種する方が、その功徳は百万倍勝れているのです。なんというパラドックスでしょう。悪人から先に成仏するという観念論や自力で成仏できるという精神世界への亡命であってはならないのです。なぜこの娑婆世界に縁あったのか。何回も六道に輪廻しながら、この娑婆世界に縁があった今度こそ、この娑婆を浄土に変えなければならないことを知るためにご縁を頂いたのです。私たちを始め娑婆世界に生きる一切の衆生は、それを知らなければならないのです。
成仏のことが出ましたので、次に成仏について説明します。<本門の題目>のところの本仏の説明で、説かれた仏と説いた仏のお話をしました。その説かれた仏の説いた浄土に往くことを往生成仏といいます。説いた仏即ち久遠本仏が説く浄土に詣でることを即身成仏というのです。往生成仏は、先に述べましたように観念的で、仮の成仏といえまでしょう。大聖人における即身成仏は、妙法蓮華経の信に始まり、南無妙法蓮華経の信に終わる者だけがいたる成仏なのです。なぜなら、「釈尊因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば自然に彼の因果を譲り与えたもう。」からです。
一方即身成仏は、一般社会では弘法大師の著書『即身成仏義』の影響もあって、「生きているまま仏になること」と辞書でも解釈されています。また、平安時代以来出羽三山などの修験道の様に即身仏として、断食によって死し、身体をミイラ化することを連想させるかもしれません。しかし、この即身成仏という語を最初に用いたのは、中国唐代の妙楽大師湛然です。日本では、伝教大師最澄の著書『法華秀句』で述べられたのが最初です。詳細は省きますが、法華経においてのみ即身成仏が成立するのです。その後平安時代の比叡山では、その即身成仏の本来の意味が先ほどの密教の要素も加わって、「そのままが仏」「あなたが仏」「わたしが仏」という間違った方向へ進んだのです。この考え方を天台本覚論あるいは本覚法門というのです。仏教的頽廃主義とも東洋思想のクライマックスともいわれています。やがてそれは、絶対他力によって一切衆生は救われているという鎌倉新仏教の浄土系の宗派を生み、一方その絶対的一元論に反発し、自力仏教として鎌倉新仏教の禅宗系の宗派を誕生させたのです。大聖人はその絶対的一元論も相対的二元論も観念論として捉え、妙法蓮華経の五字を受持し、南無妙法蓮華経と下種する行動に出ることによってそれを突破したのです。これを事の一念三千といいますが、詳しいことは<一念三千>のところで説明します。
さて、この妙法蓮華経の信に始まり、南無妙法蓮華経の信に終わる者だけが霊山浄土に詣でることを霊山往詣とういうのです。この霊山往詣と[やすらぎ]のところで述べた輪廻転生との関連ですが、生まれてから死ぬまでの本有の間に、妙法蓮華経を受持する信仰によって、その輪廻転生から離脱できるのです。つまり解脱を得られるのです。その霊山浄土とは、一体どの場所を示しているのか。インドの霊鷲山という実際の山の上か?はたまた信仰の境地という信心の中に在るのか?否、大聖人は『南条兵衛七郎御返事』の中で、「かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し。人貴きが故に所尊しと申すはこれなり。<中略>彼の月氏の霊鷲山は本朝この身延の嶺なり。」とされています。<本門の戒壇>のところでも説明しましたように、身延山が本門戒壇院根源であり、行動の原点となるのは、この意味からも言えるのです。
最後に、お葬式について少しお話ししておきます。お葬式は、葬斂式(そうれんしき)と告別式の二つの部分からなっています。葬斂式はその故人が生前信仰する宗派の儀式に則って行なわれ、告別式は故人に代って喪主や葬儀委員長が生前お世話になった人々にお別れの挨拶をする儀式です。会葬者が多い場合は、時間をかけて二部構成から葬儀が営われますが、普通は葬儀の中にその二部が含まれます。結婚式でいえば、結婚式と披露宴に当たります。最近、無宗教であるから葬儀をしない人たちがいます。殊に一般にインテリと呼ばれる方や著名人に多くうかがえます。
上のことからすれば、そのような人たちは、宗教を信じないのは勝手ですが(まあ、法を説けない坊主に高額のお布施を出すのがばからしいか、葬儀屋サイドで事が進行するのが面白くないというのが無宗教の理由でしょう)、この世にお別れの挨拶もして行かない無礼な輩です。以前有名な裁判所の裁判長でしたか、死んでしまえば人間はゴミと同じだから葬式はしないと言った人がいました。わたくしにちかめは、挨拶のできない者は人間のクズだと教育を受けてきましたが、告別式もしない輩はやはりそういう意味で人間のゴミクズだといえるでしょう。また、「それ老狐は塚をあとにせず。白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし。」と言われた大聖人なら畜生にも劣る連中といわれるでしょう。この娑婆世界に折角ご縁を頂いたのです。その娑婆世界の生きとして生きるすべての衆生にさよならの挨拶をするのが、実はお葬式なのです。告別式はどうしてもしなければならないのです。
さてさて、そのような無神論者も法華経を謗る者も、逆縁といって最終的には法華経によってのみ救われるのです。ここに私にちかめは、日蓮宗の葬儀次第を少しだけ説明し、その未信徒達が来世の本有には法華経と縁を結ぶように引導をお渡ししましょう。まず日蓮宗の葬儀式次第は、おもに勧請・法号授与・引導・読経・唱題の部分からなります。その中の引導は、別れに臨んでの最後の故人にする説教です。以下その引導文を全文掲載し、この霊山往詣の結びと致します。あくまでも未信徒用引導文の一例です。
『引導文』 「謹んで勧請したて奉る、南無事の一念三千輪圓具足未曾有の大曼荼羅御本尊、別して南無久遠実成大恩教主本師釈迦牟尼仏、南無証明湧現の多宝大善逝、南無十方分身三世の諸仏、南無上行 無辺行 浄行 安立行等本化地湧の諸大士、南無文殊 普賢 弥勒 薬王 薬上 勇施 妙音 観音等、迹化他方来の大権の薩た、南無身子 目連 迦葉 阿難等新得記の諸大声聞、大梵天王 釈提桓因 護世四天王等一乗擁護の天龍八部、総じては霊山虚空ニ処三会、発起影向当機結縁の四衆、殊には末法有縁の大導師高祖日蓮大菩薩、六中九老僧等宗門歴代の先師先哲、妙法山蓮城寺開山蓮性院日相上人以来の歴代の諸上人、別しては閻羅法皇五道の冥官冥衆等に申して曰く。
まさに今、平成○年○月○日 ○○歳を娑婆の一期として幽冥に赴くところの一霊魂あり。即ちその凡名 ××××を改め、新たに法号を授与して ○○○○と号す。此れは是謗法不信の徒なりと雖も、閻浮受生の一人なり。仰ぎ願わくば上来勧請の諸尊特に大非の御手を垂れ、霊也をして寂光の宝刹へ摂取引導し給えとしか云う。且待須臾。且待須臾。
霊也、今汝に悟道の要句を示さん。謹んで諦聴、善くこれを思念せよ。それおもんみれば、この妙法蓮華経は、三世諸仏出世の本懐、順逆二縁成仏の直道なり。霊也不幸にして謗法不信の生を送り、まさに堕在三途の道に在りと雖も、今や仏子の救いに遇い、ここに無上の妙法に接す。改善遷善、即身成仏の大事豈難しとせんや。経に曰く、仏諸の比丘に告げたまわく、未来世の中に若し善男子善女人有って、妙法蓮華経の提婆達多品を聞いて、浄信に信教して疑惑を生ぜざらん者は、地獄餓鬼畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん。所生の処には常にこの経を聞かん。若し人天の中に生るれば勝妙の楽を受け、若し仏前に在らば蓮華より化生せん。釈に曰く、因謗堕悪必由得益。また曰く、或いは順、或いは違、終にこれに因って脱す。宗祖日蓮大聖人示して曰わく、善悪不二の南無妙法蓮華経なれば悪人も必ず成仏す。邪正一如の南無妙法蓮華経なれば邪見いよいよたのみ有り。皆成仏道の南無妙法蓮華経なれば十界平等に利益す。速疾頓成の南無妙法蓮華経なれば二生三生をも期すべからず。ただこれ一生入妙覚の大法なり。仰いで信受すべし。
今霊也が棺廓をこの処に安置し、親戚故旧相会して葬送の儀を修し、香を焼き、経を誦し、以て法華経本門の大戒を授けん。霊也それ永く忘失することなかれ。納種在識永劫不失。元品の無明を切る大利剣 南無妙法蓮華経。生死の長夜を照らす大燈明 南無妙法蓮華経。速やかに仏身を成就することを得せしめんと 南無妙法蓮華経。
維時 平成九年九月九日
妙法山蓮城寺 住僧 にちかめ 」